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半熟三昧(ジャズ味) このページをアンテナに追加

2017-09-24ヒノテル問題についての私感

私の立ち位置は、地方の中級アマチュアミュージシャン。プロとは時々絡んで演奏をします。日野さんとは地方のホールコンサートのあと地元に立ち寄ったアフターセッションで一緒に演奏させていただいたこともありました。COI(利益相反)はありません。

結論から言っちゃうと、

  • あれは体罰・児童虐待の範疇ではなく、むしろパワハラであろう。
  • 日本の枠から飛び出してグローバルかつ自由なライフスタイルを獲得した日野さんが、日本的な体罰文化の文脈という矮小な視点で断罪されたことに、ボタンのかけちがいというか悲劇があった

と思っています。

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2017年8月20日に世田谷パブリックシアターで行われた中学生ジャズバンドの演奏中に日野がドラム担当の生徒に対して髪をつかんだあと往復ビンタをするという暴行をした。週刊文春は動画を入手しており、2017年8月31日に発売予定の週刊文春でも取り上げられ、TVなどでも報道され、物議をかもした。

中学生にステージ上で暴力をふるった、というのは間違いない事実であるが、

この事件を契機に体罰とか昭和オヤジ的な話になっているわけだが、なんかそれは違うとも思いつつ、モヤモヤ考えがまとまらなかったわけですけれども。いくつか自分の考えを述べてみます。長くなって恐縮です。

基本的に日野皓正さんは、格下には温厚。 基本的に日野皓正さんは、格下には温厚。 - 半熟三昧(ジャズ味) を含むブックマーク はてなブックマーク - 基本的に日野皓正さんは、格下には温厚。 - 半熟三昧(ジャズ味)

日野さんが、レギュラーコンボの人たちには割と厳しくて、MCとかでも愚痴を言ったり、今回の事例にもうかがえるような、一部物理的な暴力を伴うディレクション(シンバルを蹴り上げたり)があるというのは、以前から聞いてはいました。

ただ、それは、あくまで自分の影響下の自分の認めたプレイヤーであり、自分のサウンドを共に創っていく仲間に限られること。

グループレッスンとかワークショップとか、子供を教えるような場では、基本的には温厚だと思います。

上にはヘコヘコし下には高圧的に接し体罰も辞さないという、日本のおじさんに昔よくいたようなタイプでは全くない。「中学生に体罰」という事実に脊髄反射的に寄せられた批判のほとんどは、そういう非難でしたが、日野さんはその枠では語れない。なにせ日本の枠に収まらずに飛び出した「世界のヒノ」だもの。

件の中学生については、ジャズ的な技術については相当のものがあり、日野さんも肩入れをして、どちらかというと近しい関係性であったということで。

 まわりの子どもたちからしたら、日野さんに目をかけてもらっている、認められてることは、その事実も実力も含め羨望の的であったことでしょう。結果殴られましたけど、そこまで濃密な人間関係を形成できるまで近接できているのは、まわりからみると特権的な立場でさえあるわけです。非常にパラドキシカルな話ではありますけれども。

事後の父子のコメントにも、そのあたりはあらわれているように思います。決して周りに言わされているわけではないと思うのですよ。

大人が子供に体罰を与える…? 大人が子供に体罰を与える…? - 半熟三昧(ジャズ味) を含むブックマーク はてなブックマーク - 大人が子供に体罰を与える…? - 半熟三昧(ジャズ味)

そもそも中学生で実力のある人間であれば、ジャズ・ミュージシャンとしてはもう大人。

マイルス・バンドにトニー・ウィリアムスが加入したのは16歳の時でありました。幼少からジャズ専門教育を受けている人たちも増えて、最近は中学生くらいでプロに準じた実力をつけているものは決して少なくはありません。ジャズ界では、この年令は、昔でいう元服と同じで、実力が伴えば、一人前扱いを受けてもおかしくない。

だから、大人が子供に体罰を与える、という「児童虐待」という枠で考えるとおかしくなる。むしろパワハラ、という文脈で語られるもののように思われる。

では、メンバーであれば暴力は許されるのか? では、メンバーであれば暴力は許されるのか? - 半熟三昧(ジャズ味) を含むブックマーク はてなブックマーク - では、メンバーであれば暴力は許されるのか? - 半熟三昧(ジャズ味)

日野さんが自分のグループのメンバについて、わりと「キツい」というのは業界でも有名な話ではありまして、それは、今の水準でいえば、アウトであるっちゃあアウトでしょうね。ここは難しいところで、日野さんを擁護したい人たちも、完全に容認できない最後の一線ということになるでしょう。

30年前は当たり前のことは、今ではダメになっている。タバコに関することも、たとえばセクハラ的な言辞などに対することも、昔は大らかで(大らかというのは少し語弊があると思いますけど)はありました。

日野さんも海外での生活も多いし、いわゆるサラリーマン的な社会人生活とは無縁の方ですから、そのへんの時代の違いについて鈍感だった可能性はある。

うーん、じゃあ日野さんがあかん、で終わっていいのか、といわれると、個人的には疑問に思っています。

今ジャズって、学校で教わったりするようなもんになっていますけど、基本的にはショウビズであり、めちゃめちゃ社会のロウな部分のものだし、黒人のジャズメンは公民権を勝ち取るまではきっちり差別されていました。マイルス・デイビスだって、ナイトクラブでスター気取りなのに、店をでたら白人の警官に「ボーイ」呼ばわりされて警棒で小突かれたりが当たり前だった、という屈辱的なエピソードを回顧しているし、暴力、ドラッグ、酒、女、そういうありとあらゆる非教育的な混沌と猥雑から醸成してできた音楽がジャズなわけです。

アメリカに渡ってそういうジャズの中で揉まれてきた日野さんって、多分、今自分やっている態度の100倍くらいひどい目に遭っているはずなのよね。

いつしかジャズは文化的なスノッブなものになりました。昔からそうなんですが、往時は聴き手と演奏家の間にかなり懸隔がありました。生身の演奏家に接するのは、東京に住んでいる文筆家・文化人とか特権的な一握りの人たちだけでした。今ではミュージシャンとの物理的・心理的な垣根はどんどんなくなっています。我々アマチュア・ミュージシャンも、プロとアフターで接したりしていますし、たとえばプロが地元のアマチュアミュージシャンにやるワークショップとか、大学でジャズマンが教えてたりとか。

今のジャズは、基本的にはそういう猥雑なものがクレンジングされて、市井の一般人がアクセスできるものになっていますが、そこには多分功罪がある。本来のジャズはもっとデンジャラスなものでありました。僕たちはそれを忘れすぎてはいないか、と思います。

僕たちは動物が檻に入れられて無害化している動物園だと思って接しているけど、昔気質のジャズ・ミュージシャンなんて、鎖につながれていない野生獣でしかるべきであるわけで。そして日野さんはそういうジャズ文化の最後の世代に属していることを忘れちゃいけない。

だから今回の一件で、日野さんには「Genuine Jazz Musician」と刻印して、売り出したらいいんじゃないか、とさえ思う。もちろん逆説的な意味ですけれどもね。

んで、最近の若手はそういうクレンジングされたところからジャズの世界に入っていきますけど、実力の階梯を登るにつれてリアルのショウビズ界の理不尽な洗礼はどこかで受ける。そういう人に対して、多少手荒ではあるけれども注意する、というのはやはり誰かがやらなければいけないことなのではないか、とは思いました。

実は殴ったりするのって、責任も引き受ける事でもありますから。やんわり「次はあの子呼ばないで」とかいう風になる方がよっぽどきつい。でも多分大半はそういう反応なわけですから。

以下Web上でみられた論に対する個人的な反論: 以下Web上でみられた論に対する個人的な反論: - 半熟三昧(ジャズ味) を含むブックマーク はてなブックマーク - 以下Web上でみられた論に対する個人的な反論: - 半熟三昧(ジャズ味)

公衆の面前で叩くなんて…

じゃあ、まあ、バックステージだったらいいの?

むしろ陰湿でしょ?

この人が教育専業の人で、体罰が常習化しているなら、きっとバックヤードでネチネチやるでしょうね。その意味では日野さんの行動は大変正直。バカ正直といってもいいかもしれない。

多分正解は「スタッフに引きずり降ろさせる」だと思う。ステージ上で衝動的に暴力を振るったということはやっぱり非難されても仕方がないことでしょう。

ヒノテルなんかジャズの歴史に一切関与していない、こんなやつなんか聴く必要ない

大した音楽家ではないですよ(太田光)

うーん。私もヒノテルの音楽はそれほどは聴きません(アルバムはいくつかもってます)。しかし日野皓正のバンドのメンバーは逸材ぞろいで、卒業した人も含めると日本のジャズシーンでは無視できない影響力があります。もちろん日野さんのバンドに入りさえすれば実力が形成されるわけではなく、多くは当人の努力で実力を獲得したものだけど、マイルスに似て「ヒノテル・スクール」の経歴は、一定以上の質の保証になっていることは事実でしょう。

それから、一旦ジャズの本流が滅びた80年代以降の今のジャズは、ある種歴史のない時代といえます。ジャズ史の多くはそれ以前に形成されたもので、日野皓正がその歴史の中に入っていないのは、仕方がないという気もする。

暴力を振るうのではなく、音で黙らすべきではなかったか

うーん。フロントの立場で、暴走したリズムセクションを自分のプレイで引き戻すのは、基本的に無理です(ロストしている場合は別)。あとこれビッグバンドでしょ?コンボならともかく、大きいバンドは、一旦サウンドがばらばらになったら、破綻なく復調をさせることはなかなか難しい。

こういう場合は、欧米では”Stroll”というマジックワードがあって、それがディレクターから発せられると、舞台から去らなきゃいけないんですって。教則本にも「君たちが余計な音をだしてStrollと言われないことを願っている」とか書かれてた。

強制終了スイッチが壊れてたら物理的に止めるしかない、というのはしょうがないのかもしれない。

2017-05-30アドリブの構成力と一発力 このエントリーを含むブックマーク

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アドリブってどうやるの?という後輩からの問いに対して、今まで自分なりに自分の方法論を伝えたりした時期もありましたが、ここにきて、大きな要素を見落としていたことに気が付いた。

 自分は昔コード感を出したメロディメイクがきわめて苦手だった。音感のない、センスのない野郎だったのだ。地道な練習でなんとかそれを克服し、獲得したスキルであるがゆえに、私はコード感をつけるということを逆に偏重していたような気がする。

 でも、コード感だけで「そこにはまった音」を置いていくだけでは、魅力に欠けたり、地味だったりする。ある程度コード感関係なしに放たれる「強度を持ったフレーズ」も重要な要素ではないか。ハイノートしかり、定番ベタネタファンキーフレーズしかり。

 たとえば、お笑いでいうと、「漫談における話の構成力」と「一発ギャグ」とは全く相反する要素である。

構成力の観点からは一発ギャグというものは異質で理解不能な要素であり、一発ギャグの観点からは構成力というのは笑いに直結しがたい理解しにくい部分であろうと思われる。要するにこの二つの要素はx軸とy軸のように独立した次元のものなのだ。

すぐれたお笑いはその両者の要素がバランスよくブレンドされている。しかし各人によってその両者の要素のバランスは異なる。

 おそらくジャズのアドリブも然り。

 * * *

理解しやすくするために、ラーメンズのお二人を例示してみよう。

小林賢太郎と片桐仁。

コンビで対照的な立ち位置を形成し、成功している二人だ。

まず小林賢太郎だが、ラーメンズの緻密コントは彼の筆によるわけで、かれはいうまでもなく「構成力」に強いタイプといえる。参考までに ラーメンズ「レストランそれぞれ」のコントをあげておこう。緻密な文脈形成能力がうかがえる。

https://www.youtube.com/watch?v=pzb4NDIaf8o

一方、片桐仁だが、構成力に関してはあまり強いとは言えないものの、フィジカルに強く、動物的勘にすぐれた「一発ギャグ」の破壊力は他にはない魅力がある。彼をフィーチャリングしたコント「タカシととうさん」をあげておこう。緻密な構成はそこにはなく、一発フレージングの強度に依存したコントであるが、これはこれでものすごく面白い。

https://youtu.be/oAq_QnLu0O8

志村けんのギャグも「外人や子供にもわかるギャグ」と言われるけれども、おそらく彼も「一発ギャグ力」に強い系譜で、これも強度が強いフレージングゆえの吸引力だろうと思われる。

 * * *

 私は長らく小林賢太郎的な要素が好きで、アドリブフレージングの方法論かくあるべしと思っていた。しかし自分のアドリブの「ひきの弱さ」みたいなものも昔から痛感していた。それは単に自分の力不足と考えてたわけだけれども、要するに、真髄の片側しかみていなかったからかもしれない。

 私の好きなミュージシャンは、例えばアートファーマーだ。ああいうそろりと語り、歌うソロが目標なのだ。そういう自分からすると、メッセンジャーズのリーモーガンのフレーズとかは「かっこいいんだけど…あれはね…」みたいな態度をとらざるをえず、今一つ咀嚼できていなかった。

 アートファーマーの構成力は好きだったけど、リーモーガンのフレージングは一発ギャグ的で、それゆえに咀嚼しきれなかったんだと思う。*1

 大学の軽音時代に、片桐仁的な一発ギャグ的な要素を重視したフレージングにたいして、私はあまり理解を示さなかったことを後悔している。今思えばそれも大事なことだし、そっちからアドリブの世界に入っていくのも、ありだよなあと最近は思う。後輩達に対して、ネガティブな影響をおよぼしたのではないかと、今冷や汗を垂らしているところなのである。

(この話は2014くらいにSNSに書いたものを再掲)

*1:もっとも、コピーはそれなりにはした。多分暗黙知で必要性を感じていたんだろうね

2016-10-16ジャズが好きなのかなあ このエントリーを含むブックマーク

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気がつくと25年ばかりジャズをやっているわけです。セッションに行ったり、ライブやったり、たまにはビッグバンドをやったりなんですけれども、やればやるほど「ジャズ」という言葉に内包される音楽の境界というのはわからない。

 どんな領域のことでもそうだけど学問的な話をする時にはまずは「定義」から始めるもんです。語義を定義して、対象の範囲を明確にしてから議論を行う。けど、ジャズに関して言えば、この「定義」こそがもっともむずかしいんじゃないかという気さえする。

 例えば、アフロアメリカンの粘るビート・グルーヴ、スウィング感とか、そういうのは私も当然好きなわけですけれども、でもじゃあボサノバはどうかというと、ボサノバも好きなわけです。自分でライブするときには、セットリストに結構ボサノバとかサンバとか入れてる。ジャズでボサノバはやるけど、じゃあボサノバがジャズかっていうと、それけっこう微妙な話なんである。

 そういうことをふまえて深く考えると、

僕が好きなのは本当にジャズなの?

と自問自答してしまうわけです。少なくともブルーグラスの人がブルーグラスを好きなようには、僕はジャズが好きじゃない。多分。

 この話は学生の時に散々考えたが、あまり明確な答えも出ず、最近は演奏することをまあ優先させてあまり考えないようにしていたのだが、最近思うのは、僕は「ジャズ」が好きなんじゃなくて「リードシート・システム」とでもいうべきジャズコンボで用いられる演奏の形態が好きなんじゃないか?ってこと。

リードシート・システム。

今、仮称してみたが、つまりメロディーとコードフィギュアの比較的シンプルな「設計仕様書」を元にその場で音楽を構築するスタイルのことだ。

これの極北がジャム・セッションであるが、もう少しかっちり作り込んだものも含めて、音楽の中に、ある程度自由度を残した形態だ。

 リードシートには最低限の取り決めしか書かれていない。そこから、自分のスタンスで音を出していかなければならない。もちろん、他のプレイヤーとぶつかることもあるし、噛み合うこともある。偶然が重なりとんでもなくいい演奏になる可能性もある反面、ちょっとしたボタンのかけちがいで、ズタズタになってしまう可能性もある。

そういった意外性・ダイナミックさが、僕は好きなんじゃないか。クラシックにしろ、ポップスにしろ、ロックにしろ、音がなりだしてから音がおわり一曲が終わるまでの間の形は、比較的スタティックなものだが、いわゆる『ジャズ』と但し書きがついているような場合は、予定調和的な展開を裏切っても(結果いい演奏になりさえすれば)罪はない。

聴き手からすれば、あまりピンとこないと思う。ただプレイヤーの立場からすると、この言葉は結構便利だと思います。

「ずっとクラシックやってきましたけど、今ジャズも勉強してます」

と言われると、何?ジャズをお勉強?とちょっともやっとするんですけど

「今リードシート・システム勉強中です」なら、うんまあ頑張って、と言いやすいかも。

リードシートというのは簡単なものではあるが、正調のコード進行を、ちょっと記載を変えるだけでハーモニーの解釈の違いまでも表現できる。しかも演奏者の主体性も残したままで。

こういう玄妙さは、飽きることがない。セッションで既成の『黒本』を使っているだけでは、このリードシートシステムの面白さを堪能しつくしているとは言えない。マクロやVBAを使わないエクセルみたいなもんだ。

2016-05-13バランス感覚 このエントリーを含むブックマーク

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バンドメンバーがこの前結婚したわけさ。

で、スピーチってほどではないんですが、なんかしゃべらなあかんかったので、その際に色々考えたことを、ここに書いてみようと思う。

おめでとうU君。

* *

 結婚したメンバーはだいぶ歳の若いピアニスト。

学生時代にジャズ研でジャズを始めたが、もともとクラシックピアノの素養もあり、またジャズ的な勘どころもよかったのか、学生時代から活動も群を抜いていた。ライブハウスで演奏したり、学生にしてローカルなプロ活動をスタートさせている。

だから卒業したらてっきりプロになるもんだと思っていた。

だが、あっさりと地元の市役所に就職する。

バークリーにもいかないし、東京に行ったりもしない。

彼の進路を聞いた当初は随分驚いた。ずいぶんもったいない話だなと思ったし、若いが夢を追いかけたりしないのだろうか、と。

今にして思えば、国立大学を留年もせず卒業しそのまま地方公務員となる、という一見「降りた」キャリアパスは、地方の篤実なご家庭の惣領として期待された責務を彼なりに果たしていたのだと思う。

ジャズもプロの域に達しつつ、学業にもぬかりはなかった。キャンパスライフもほどほどにエンジョイしていたらしい。

ここまでであれば、よくある「若者が夢をあきらめた話」なのだが、結論はそうではない。

ジャズピアニストとしての活動は相変わらず盛んで、東京のプロミュージシャンが地方巡業を行う、その客演で引っ張りだこであるし、いわゆるプロとしてジャズのライブもコンスタントに行っている。

もちろんフルタイムのプロ音楽家ではないので、たとえば結婚式などでの演奏やホテルのラウンジなどの「おいしい」仕事はしていない。

だが、このような仕事は、音楽的に面白いものでもないのは周知の通りだ。

仕事の方でも順調で、いわゆる「釣りバカ」、仕事そっちのけで音楽に没入というわけでもないようで、つまりはきわめてバランスのとれた男なのである。

* *

ジャズの場合は、面白い演奏とレベルの高い演奏、は重なるところが多い。音楽的な豊穣さを追求してゆくと、どうしてもプロミュージシャンの棲息する圏域に踏み込まざるを得ない。

(ポップスやロックの場合は、バンド単位の活動なので少し事情が異なる)

ただその反面、個人単位での活動が多いし、他のジャンルの音楽のようにバンド練習を重ねて作り込んでいくという作業は少ない。ジャズマンの多くはきわめて個人的な活動だ。

しかも、ジャズは、音楽だけで食うのは難しい。

集客も少ないし、単価も安い。結構難しい音楽なのに。

レベルの高さと面白さは、比較的相関するが、レベルの高さと収入は必ずしも相関しない。

東京でプロとして活動するミュージシャンも、自分が真にやりたい音楽だけでやれてる人って、ごく少数で、上記のように「音楽」ではあるがその実アルバイトのようなもので糊口をしのぐのであれば、一般職の方が時間単価は高いわな。

そういうわけで、ジャズはある程度のレベルに達した後は、二足のわらじが可能なジャンルと言えるし、実際そういう人はけっこう全国にいる。

* *

ローマ人は中庸というものを何よりも重んじたという、あれだ。バランスとコントロールというのは人生のあり方において重要なイシューである。

私も地方都市に生きるディレッタントとして生き方を試行している。

* *

だが、プロの活動で身を立てている一流のプロの出す凄味、というのはもちろんある。すべてを音楽にブッこむことからしか、ある種のデーモニッシュさは生み出せないのかもしれない。

プロとアマの汽水域に生息する我々からみると、フルタイム(結婚式の演奏とかではないやりたいことだけをやっている)のミュージシャンのレベルは、やはり画然としている。

やはりそのポジションでやっている人は、近いようで、遠い。覚悟の深さも、音楽の洞察の深さも、楽器のコントロールも、すべて超えられない壁がある。

テニスで言えば、もし対戦したら、サービスキープくらいはできるかもしれないし、タイブレイクまでは時にはもつれるかもしれない。だけど、要所要所できっちり締めてセットは絶対に落とさせない。そういう人が、フルタイムのプロになっている。

近くて遠いその存在に、死ぬほど憧れはするけども、

ただ、ハイアマチュアという領域は、totalでの社会貢献度を考えると、それなりの意味があるのだと、最近は思うようにしている。

ハイアマチュアを極めることも、とても難しいことで、そのやり方は、一流のプロフェッショナリズムの極め方とは方法論が異なる。

マネタイズから解放されるかわりに、「バランス」が要求される。そういえば、以前にミュージックライフバランス、というのを書いたことがあるな。http://jazz.g.hatena.ne.jp/hanjukudoctor/20140505

我が僚友のU君も、バランス感覚の必要な人生を歩みだした。

お互いにバランス系ジャズマンとして、切磋琢磨していこう。

2015-11-17私たちが楽器が上手くなる理由には2つあってだな その2 このエントリーを含むブックマーク

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前回エントリーhttp://jazz.g.hatena.ne.jp/hanjukudoctor151017では、人が音楽を続けていくには、きれいな理由だけではないということを書きました。

その人がいかに音楽が好きで音楽にコミットしてゆくかというまっとうな「白理由」の他に、音楽以外の部分で、音楽に向かわざるをえない理由=「黒理由」とがある。

そうして、白歴史と黒歴史の陰翳で、その人の個人史は形作られていきます。


前回の話には結論というものはなかったわけですが、こうしたことを紐解いたうえで、それがどやねんということを考えてみようと思います。


* * *

自分のあり方として

ある程度経歴を重ねた自分を振り返って、自分の「白歴史」と「黒歴史」は

自覚しておく方がいいんでしょうか?

私個人は、ある程度自覚した方がいいかな、と思っています。

その人の「黒歴史」は、普段は抑圧している負の思い出であり、あまり棚卸しされることのない感情の澱そのものだったりするから。自分の好悪や非合理な行動は、こうした「黒歴史」に無意識下に影響されていることが、しばしばあります。

例えば、昔嫌いな人が好きだった文物や場所、人に対して、無条件に嫌いな感情が付与されたりだとか。

* * *

もし自分の「黒歴史」を言語化し、分析することができれば、非合理な好悪はある程度コントロールすることが出来るかもしれない。その結果、ほんとうは嫌うべきでないものを嫌わずにすむのかもしれません。

Closed MindからOpen Mindになることで、少し音楽の見え方が変わることがあります。もし「黒理由」がそれを阻んでいるとしたら、こだわりをすてることは必ずプラスにはたらクでしょう。

* * *

ジャズという音楽は、比較的分析的なジャンルであり、自己分析が、本質的な音楽の才能を傷つけることは少ないように思われます。

ただ、例えばそうした過度の分析・感情のクレンジングがマイナスに作用することは確かにありえると思います。例えば、作詞・作曲などのクリエイティブな領域は、過度に分析的であることが影響を与えてしまう可能性はあるかもしれない。*1

パッションは、理性の冷風に当てることで、よくなることもあるけれども、悪くなることもありうる。歌詞などは、過度に説明的であったり整合性などを気にすると面白くなくなることもあるから。

僕自身はどちらかといえば分析的な人格で、分析的な演奏をするんですが、そういうのを超えたデーモニッシュな演奏家に当てはまるかどうかは、正直わかりません。各人でご判断ください。

* * *

バンドとの関わりにおいて:

長く音楽活動をしていると、(ジャズでは特にそうですが)常に同じバンドに所属しているわけではないが、共演歴が長く、単なる友人以上の存在であるミュージシャンが少なからずいるように思います。

 自分の悩みを打ち明けたり、打ち明けられたり、しんどい時のことも知っているミュージシャンには、いわば自分の「黒歴史」の部分も知られているわけです。

 そういう存在は、腐れ縁というか、半分家族というか、単なるバンドメンバー以上の意味があります。

 黒歴史・黒理由というのは、触れる時に痛みを伴うものなので、むやみに誰にでも開陳するものではないと思います。従って、そういうものを誰にでもペラペラ喋る必要はない。当たり前の話ですが。

 ただ自分の黒歴史を知らしめていないメンバーに対しては、当然ながら、あくまでも社会人として節度ある行動が求められると思います。自分の弱みをみせていない人に対して、弱みが理由である自分の非合理な行動が受け入れられるはずがない*2

 自分の非合理で痛い部分=「黒歴史」をも共有している関係性の深いバンドメンバーには、ある程度の「甘え」が、場合によっては許されるのかもしれない*3

 逆に、メンバーのそういう過去を知るということは、メンバーから非合理なレベルの行動に振り回されることがありうるわけです。面倒な話ですが。

その代償として深いコミットメントは得られるかもしれないが。

*1:自分は作曲をしないのでそのあたりの機微はわかりませんが

*2:ときどき、理由が明らかにされていない共演NGがありますが、事務所所属ならマネージャーを通したりできますけど、完全に個人で動いているミュージシャンの場合は、はっきり言ってそういうこという資格ないよ、と言いたくなる。

*3:あくまで甘えを許すかどうかは相手の考えによることは留意してください